ちょっと昔の思い出
大学2年生の頃、僕は精神分析学にハマっていた。
特にハインツ・コフートの自己心理学がお気に入りで、図書館にこもってはコフートの翻訳書を読んで自分自身を自己分析するというMっぽいことをしていた。
更にコフートの解説書も翻訳されていたから、僕はその本も読んでいた。
悩みの尽きない大学生だった。自分という存在が苦しかった。
僕は僕自身に囚われていた。
その苦しみから何とかして自由になりたかった。
ある日、コフートの解説書を翻訳した教授が隣県の大学にいることを知った。
しかもカウンセリングルームを併設しており、その教授からカウンセリングを受けることができたのだ。
僕はすぐにその大学に電話をかけ、その教授からカウンセリングを受けることを懇願した。
大学3年生の夏だった。僕は電車で2時間ほどかけて大学までいった。
とにかく暑い日だった。
教授はとても優しい人だった。
僕は持てる知識を総動員して教授に話をした。
教授は僕がよく学んでいることを褒めてくれた。
そしてこう言った。
「君はちょっと誤った解釈をしている」
そりゃそうだろう。僕の独学なんて屁でもない。
しかし教授が僕に伝えたのは、ちょっと違った見解だった。
僕は拍子抜けしてしまった。
「人間はもっとシンプルな生き物だよ。君は難しく考えすぎている」
そして続けた。
「要するに・・・愛がないと生きていけないんだ」
僕は困惑した。そんなことは分かっている。
そんなことが聞きたいのではない。
教授なりに僕を分析してほしかった。
だけど教授の見解は至ってシンプルだった。
学術的な言葉など一言も出てこなかった。
「愛・・・」
モヤモヤした気持ちのまま僕は大学を去った。
今思えば、あの見解は当時の僕にとってベストだったのかもしれない。
今思えば、である。
あの時の凝り固まった僕の頭では理解できなかった。
僕の人生とは、人を愛することへの恐怖と戦うことであった。
もちろん今もまだ続いている。
僕はすぐに自分を責める。
その裏には「自分など人に愛される価値がない」という考えがある。
僕は母子家庭で育った。
まだ離婚していない頃、父と母の喧嘩を見るのがとても辛かった。
苦しんでいる母の姿を見るのが辛かった。
いつしか僕は、自分がいけないから両親が喧嘩をしているのだと考えるようになった。
だから、両親が喧嘩をすると泣くしかなかった。自分が悪いと思い込んでいた。
いい子になろうと努めた。
自分がいい子にしていれば、両親は喧嘩をしないのだと。
そうしているうちに、自分が一体何者なのかが分からなくなっていた。
そのまま大人になってしまった。
それをアダルトチルドレンと呼ぶこともできるだろう。
離婚し、父が家を出ていった。
僕は嬉しかった。
だけど、僕の人生はそこから始まった。
辛い、辛い人生の幕開けであった。
中学1年生の時の話である。
*****
あの教授は僕に正しいことを教えてくれていた。
僕に足りないものを見抜いていたのだ。
今になってそう思う。
教授と出会ったあとから今日に至るまでの間、僕は何人かの人と付き合った。
どれも長くは続かなかった。
人の愛し方が良く分からなかった。
ある人は相手から去っていった。
ある人は、自分から断ち切った。
そして今度はパチンコを愛した。
残ったのは依存症だった。
今もご覧のとおり苦しんでいる。
もがき苦しみながら生きているのだ。
僕は、何か答えを見つけたいのだ。
この暗く長いトンネルを抜けて、新しい景色を見たい。
禁パチ100日目とか、365日目とか、そんなことはどうでもいい。
3か月間禁パチして見える景色なんて、禁パチ1日目と大して変わらないぜ。
自分の目が曇っていたら、何日続けても同じだろう。
禁パチを志した人は皆、長く暗いトンネルを歩み続ける。
景色のいい山なんかじゃない。
暗くてジメジメした洞窟のようだ。
もしあなたが、その洞窟から抜けた人であれば、どうか僕にその景色を教えてほしい。
僕を勇気づけてほしい。
禁パチとはえらい趣旨がずれているんだろうな。
僕は禁パチブログなど書くべきではないのだろう。
実は「禁パチ」にこだわっているのは自分であって、本当はもっと別の何かを目指しているのかもしれない。
しかし、長く暗いトンネルは続く。
抜け出すことなどできはしない。
だけど、歩みを続けよう。
ちょっとブログお休みします。
みんな禁パチ頑張って下さい。僕も頑張ります。
牙狼打っちゃ駄目だよ。
またお会いしましょう。では。
明日はどこへ行くのだろう。
禁パチ96日目