真面目に
ちょっと真面目になって考えようと思う。
この土日もパチ屋に行っていた。
土曜日は朝、地域のボランティアに参加した。午後に空き時間ができたため、パチンコを打ちに行った。
新台の絶狼を打った(勝った)。
日曜日は大学に行って勉強をするつもりだったが、勉強するのが嫌になってずっとパチンコ屋にいた。昼から閉店まで打ち続けた(負けた)。2日間で±0くらいだ。
こうして見るとのらりくらり楽しんでいるように映るかもしれない。だが、内心はとても後ろめたい気持ちだ。こんな一日を過ごしてよかったのかと後悔するばかり。
このブログを書き続けている限り、後ろめたさは付きまとう。
俺はパチンコをやめるためにこのブログを書いている。
だが、読んでもらえたら分かるように、どう見てもやめる気がない。
やめようともしていない。
全くやめる気がない訳ではないが、真面目に取り組もうという姿勢はほとんど見られなくなった(他人事みたいだが)。
パチンコ中毒だと言ってしまえばそうなのかもしれない。
その場合はセラピーが必要になるのだろう。
パチンコを「中毒」という概念で見てしまうと、そこには必ず医療的な言葉(治療しなければならない)がついてくる。
ただ、実際にホールに行くと、わりと普通な感じの人が沢山いる。普通に生活し、普通にパチンコを打っている人だって結構いる。
その人たちを中毒と呼ぶか否かについては、これは人によるものだろう。
何が言いたいのか。
つまり俺は、パチンコ無しでは生きていけない身体になってしまっているということだ。
頭も心もパチンコまみれになってしまっている。
休みの日に打ちに行かないと損した気分になる。
何かあるとすぐパチンコだ。
もう完全にパチンカスクズ野郎になりきっている。
そんな自分に嫌気がさしながらも、他の選択肢を意図的に捨てながら生きている。積極的にパチンコを求めようとしている。
「今日は気分転換したいな」→パチンコ屋へ
「今日は暇だ」→パチンコ屋へ
「少し時間ができたぞ」→パチンコ屋へ
「疲れているし何もしたくないな」→パチンコ屋へ
「どこかに行きたいが人と関わりたくない気分だ」→パチンコ屋へ
「楽しいことがしたい」→パチンコ屋へ
・・・
今の俺はこんなんだ。
本当にやめたいのであれば、矢印の先を違う方向に向けなければならない。
楽しいことも悲しいことも、全部パチンコになってしまっている。何連しただとか、いくら勝っただとか。
自分を変えたければ、自分が変わらなければならない、というトートロジカルな言葉が浮かぶ。
だけどもう、変わりたければ変わっていくしかない。
そう、「変わる」とうのは行為そのものであって、何かを成さなければ変化というものは生じないのかもしれない。
変わるためには・・・動くのだ。違う方に。
それでは、俺はどこに向かって行こうか。